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たぶんサッカーの話が多いです。

ミスタートリニータ、17年間ありがとうございました。

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ミスタートリニータ高松大樹

いつからだろうか。「ミスタートリニータ」という肩書が、高松大樹を指すようになったのは。

誰が呼び始めたのか分からないし、誰が広めたのかも分からない。2004年のアテネ五輪や2006年のA代表選出時はもちろん、2008年のナビスコカップ優勝時にさえ、(キャラクター性を要求する全国版マスコミを除けば)それほど頻繁に呼ばれていた記憶はない。そう考えると、この呼び名はわりと最近になって広く定着してきたようにも思える。

それでも、大分トリニータというクラブにおいて、在籍年数16年、406試合出場、87得点の数字を上回る者は、誰一人として存在しない。すなわち、高松が大分トリニータの「象徴」であることに異論を挟む余地はない。誰もが納得する、ミスタートリニータなのだ。

11月8日。「最後」が現実になった日

そんなミスタートリニータが、今シーズン限りでピッチを去ることになった。

私、高松大樹は今シーズン限りで現役を引退します。大分トリニータで16年、FC東京で1年、プロ生活を17年も続けてこられたのは、今まで関わった選手、監督、スタッフ、トレーナー、ドクター、マネージャー、スポンサーの皆さま方のお陰であり感謝いたします。

そしてファン、サポーターの皆様、どんな時も変わらぬ愛で支えて頂きありがとうございました。皆様には13日のホーム最終戦で改めて挨拶させていただきます。

最後に一番近くで僕を支えて応援してくれた妻、子供達には心から感謝の気持ちです。本当にありがとう。

大分トリニータで育ち、大分トリニータでユニフォームを脱ぐことが夢でした。

高松大樹は引退しますが、皆様これからも大分トリニータをよろしくお願いします。また大分トリニータの力になれるようパワーアップして帰って来ます。

あと2試合全力で闘い頑張ります。

FW13高松大樹

引退 | 高松大樹オフィシャルブログ

おそらく、大分トリニータのサポーターで「この日」が来るのを考えたことがない人は、それほど多くなかったのではないかと思う。むしろここ数年間、シーズン中にさえこの日のことを考える人も少なからずいただろうし、シーズンオフとなれば毎日のように頭をよぎったことだろう。

サポーター総意の平均をとれば「よくここまでやってこれた、いや、よくここまでやってきてくれた」といったところなのではないだろうか。何度も折れそうになりながら時に派手な復活を見せ、それこそ何度も起伏を繰り返してきたクラブを象徴するような、そんな選手だ。

ごく個人的な、思い出ばなし。

初めて高松大樹という選手に注目したのは、2004年のアテネ五輪だったと記憶する。当時は大分トリニータのサポーターというわけではなく、どちらかというと海外サッカーに興味がある中学生だった。

もちろん「ビッグアイ」(大分銀行ドームの愛称)に試合を見に行ったことはあった。見に行ってしまえば、それなりにトリニータを応援していた。それでも、レギュラーでなかった高松大樹より、点をいっぱい取るマグノアウベスや、華のある吉田孝行のほうがよっぽど魅力的だと思っていた。

しかし、五輪本大会。高松は初戦のパラグアイ戦でPKを2度にわたって獲得し、絶望的に失点を繰り返す日本代表に反撃ムードを持ち込んだ。そして第2戦・イタリア戦では、デ・ロッシジラルディーノに美しいゴールを決められながらも、後半アディショナルタイムに一矢報いるダイビングヘッドを叩き込んだ。

大会終了後、当時は慣れないインターネット掲示板でサッカー情報を取り入れていたが、そこには「高松は良かった」という書き込みがいくつもあった。それを見た自分はこれまで見向きもしてこなかったくせに、なぜか誇らしい気分になった。大分トリニータの選手が、厳しい目を持ったネット掲示板ユーザーに注目されている、と。

(ついでに言うと、あたかも前から応援していたような口ぶりでそこに書き込んだりもした……ような記憶もある)

栄光のシーズン、そして満身創痍と若手の台頭

「若手の登竜門」とされる五輪本大会で活躍した以上、本来はここからスター街道を駆け上がっていくのが定番だ。

しかし結果的に、高松の「キャリアハイ」は24歳で迎えた2006年に訪れ、Jリーグでの二桁得点はその1シーズンのみで終わった。その背景には、足首やヒザの慢性的な負傷、クラブ規模拡大による有望選手の入団があった。

高松の活躍でナビスコカップを優勝したとされる2008年でさえ、4位に輝いたリーグ戦では入団以来初めてのノーゴールに終わっている。負傷の影響で中盤以降は離脱が続き、ウェズレイ金崎夢生の好調もあって出番がなかったのだ。

そもそも、この年のトリニータは34試合33得点と積極的に得点を狙うようなチームではなかった。J1リーグ4位という結果は24失点(いまも破られていないJ1最少記録)の堅守に支えられたものであり、そんなチームにおいて運動量の少ないウェズレイと高松の併用はあり得なかった。

もっとも、だからこそナビスコカップ決勝での先制ゴールにサポーターは深く感動したのだろう。

J2降格、FC東京への期限付き移籍

この年以降、高松はチームの困難を一身に背負ったような存在になった。

2009年、チームは歯車が狂ったどころか壊れてしまったように負け続け、降格まっしぐらの状況で経営も含めた責任が追及された。個人としても、入団時から変わらないライフスタイルだったのだろうが、「夜の街」関連の噂で厳しい声も飛んだ。

もっとも、負傷によって満足に出場できない葛藤がある中、チームのリーダーとしてサポーターやスポンサーとできる範囲で向き合っていた。ピッチ上でも、上位・名古屋戦での起死回生の同点ゴール(すぐに東慶悟も決めて劇的な逆転勝利)や、首位・清水を相手に2ゴールなど、記憶に残る活躍を見せたことは述べておかねばならない。

J2降格の責任を背負ってチームに残留した2010年も、負傷により出場機会は増えなかった。そして翌年は高年俸の肩代わり的な意味合いで「付き合い」のあるFC東京に移籍。試合中の負傷でシーズン後半をリハビリに費やし、2年連続で降格という不運な形でトリニータに戻ってきた。

サポーターでぐるぐる巻きになった足首やヒザを見たサポーターからは「すでに終わった選手」といった評価が少なくなかった。

スーパーサブに活路、そしてJ1での輝き

しかし、高松大樹は復活した。

昇格した2012年、負傷の影響で序盤は出遅れたものの、主力の負傷で回ってきた出番を生かし、「時間限定選手」として32試合に出場。7月までに獲得した全5得点は、試行錯誤しながら勝ち点を積みかさねていた時期を大きく助けた。

また、とりわけ重用されたのは、初の開催となったJ1昇格プレーオフの動向もあって緊迫していた終盤の昇格争い。持ち前の得点力とキープ力が買われ、「勝っていても負けていても最後は高松」という用兵が定番となった。

劇的な昇格を決めたが「さすがにJ1では無理だろう」と言われていた2013年も、後ろ向きでも難なくボールを扱う技術が生き、終わってみれば5得点。森島康仁(7得点)に次いでチーム2位の結果を残し、「やっぱり高松はすごいんだ」とサポーターに存在を印象付けた。

個人的には、この2年間の高松大樹がもっとも印象的だった。

どんどん狂っていくクラブ、浮上を見届けて引退

2014年は7位でプレーオフに進出できず、そこからの経過は正直あまり思い出したくない。オフからクラブがどんどん悪い方向に進んでいったのは間違いないが、未だに何が起こっていたのかはよく分からない。

事実として2015年にはJ2で21位となり、入れ替え戦でも敗退してJ3降格。自分の推測でしかないが、このあたりで身を引く予定だった高松は、再び責任を取るような形で残ったんじゃないかと思う。

実際にクラブのオフィシャル写真などで今年の体型を見ていると、もはやアスリートのそれではない。負傷が重くてトレーニングができないのか、完全に構想外になっているのかは知らないが。

いずれにせよ、これまで7試合の出場にとどまっており、ホーム最終節を前に引退発表の運びとなった。

2012年を彷彿とさせるような上昇の機運を見届けながら、「ミスタートリニータ」という肩書を引っさげて―。

ミスターの歴史はトリニータの歴史

いま振り返ると、高松がミスタートリニータになった瞬間というのは、大分トリニータというクラブの歴史が認められた瞬間だったのではないかと思う。創設して間もないクラブ、歴史のないクラブに「象徴」はいない。クラブが年月を経て歴史を刻んできたからこそ、「ミスター」が生まれるのである。

そう考えると、高松は大分トリニータの象徴というだけの存在でなく、大分トリニータの歴史を示す存在であるとも言える。もちろん高松の入団前にも選手は在籍していたわけだが、「ミスター」という肩書にはそれくらいの重みがある。

だから、サポーターにも歴史の区切りと継承を見届ける責務がある。終わらせるからには引き継いでもらわなければならないのである。

 

高松はあまり多くの言葉を語る男ではないが、本日9日に引退会見が開かれることが決まっており、ホーム最終戦・YS横浜戦ではサポーターにあいさつをするという。今後はどんな人生を歩んでいくのか分からないが、「ミスタートリニータ」としての肉声はこれが最後。さすがに出場することはないだろうが、大勢の人に見守られながらその日が迎えられることを願う。

 

17年間、あんなクラブでおつかれさまでした。そして、ありがとうございました。